「カホール・ラバン」エッセイ集
65.新しい時代
「新しい時代」−。アラファト死亡が伝えられた日の新聞の一面大見出しだった。
ちなみに、アラファトがヨルダン経由でパリに向かった日の新聞の大見出しは、「時代の終わり」。
ヤセル・アラファト・アブ・アマル。1929年エジプトで生まれたテロリスト。職業・テロリスト、資格・テロリスト、特技・テロ、趣味・テロ、好きな事・テロ。
だが、世界はいつしか「アラファトはテロリストである」ということを忘れ、なぜか彼を崇め奉るようになった。
数え切れないほどのユダヤ人を殺した。もちろん、外国人も巻き込んだ。拉致殺人、爆弾テロ、飛行機ハイジャック爆破、オリンピック会場での虐殺、そして自爆テロ・・・。
すべてのテロ指令は、アラファトから発せられていた。
けれどもアラファトは、テロリストのくせにどの国でも拍手で迎えられ、テロリストのくせに国賓として扱われ、テロリストのくせにノーベル平和賞まで受賞した。
さらに死亡が通知されたその日、国連の旗は半旗となり、議会では、同じくノーベル平和賞を受賞したアナン事務総長の指揮のもとで、このテロリストに1分間の黙祷が捧げられた。
テロリストに黙祷はしても、国連は、このテロリストの指示で殺されたイスラエル人に黙祷を送ったことは一度もない。
そういう国連だ。いまさら書くことは何もない。
パリで死んだアラファトの遺体は、エジプトに空輸された(それにしても、ヨルダンは賢明である)。
アラブ諸国を中心とした各国の来賓が、エジプト空軍基地での野辺送りに参列した。
それは整然としていたのだが、その後のラマッラでの騒ぎは尋常ではなかった。生中継でテレビを見ていた私は、吹き出して爆笑してしまったほどだ。
日本の報道のみを見た方はわからないかもしれないが、あれは「熱狂した民衆が会場に押し寄せた」なんというやわらかい言葉で表現すべきではない。
葬儀場・埋葬場となる議長府周辺は、押し寄せた一般人で足の踏み場もないほど埋め尽くされ、誰がパレスチナ警備兵なのか一般人なのか、誰が誰やら分からない状態。
さらに入りたいと塀をよじ登る者。それを足で蹴りつけ、顔を殴る警備兵。その向こうでは塀のよじ登りに成功し、群集の1人となっていく者。(パレスチナ警備隊は、そんなに力いっぱい一般人を殴っていいんですか?)
これではヘリコプターも着陸できないと、地上の警備隊は一般人を蹴散らし、ヘリの着地場所を空けた。ようやくエジプトから遺体を乗せたヘリコプターが到着したが、今度は扉が開けられない。
ヘリに乗っていたパレスチナ首脳部が、警備隊に、「民衆をどかせろ」と怒鳴りつける。パレスチナ警備隊は、手当たりしだいに民衆を殴って退かそうとするが、1人2人ならともかく、数千の民衆を動かすの殴っても殴りきれず不可能だ。
そのうち警備兵がライフルを空に向かって威嚇射撃をしたのだが、これがいけなかった!
パレスチナのデモ行進で、空に向かってライフルを撃つのはお決まりなものだから、民衆は、「もっと騒げ!」という合図だと勘違いし、「うぉおおおお!」と余計に盛り上がってしまった。
それでもなんとかヘリに群がる民衆を退かせ、アラファトの棺を出した。
棺が登場。さぁ、ここからだ。
民衆が集まった理由は、アラファトの棺を担ぎたいからであり、「俺に触らせろ」「俺にも担がせろ」とアラファトの棺に押し寄せた。棺を担ぐ警備兵も必死だったろう。
さらに、棺の上によじ登る者まで現れた。棺の上に登っていいかどうか分からないが(どう考えてもマズイと思うのだが)、テレビの画面で確認できただけでも、6人は棺の上に登っていた(担ぐ方も大変だったろうに・・・)。そして、棺の上に座った男達は、さらに棺に登ろうとする者を殴り、足で踏みつけていた。(コメント不可能・・・)。
この後、棺を納める儀式が行われる予定だったが、熱狂した民衆でぐちゃぐちゃになってしまい、儀式は取りやめとなった。
日本のどこかの祭りで、参加者が神輿や御神体に群がり、誰が一番かを競うようなシーンを思い出した。いや、あれよりも凄まじかったと思う。とりあえず、どう見ても葬儀には見えなかった。それにあの暴力シーンはすごい迫力だった。
エルサレムでやらなくてよかった。本当によかった。
エルサレムにアラファトを埋葬しない理由? トミー・ラピード法相が、見事な一言で片付けてくれた。
「エルサレムはユダヤの王が眠る聖地である。アラブのテロリストのための場所ではない」
ユダヤ人を殺せ・イスラエル人を殺せと叫び続けたテロリスト。イスラエル人を地中海に突き落とせ、と喚いたテロリスト。自分自身の手は汚さず、「殉教」という名で若い命を奪ったテロリスト。テロでイスラエル人が苦しむ姿を見て喜んでいたテロリスト。忘れてはならない。彼は、最初から最後までテロリストだった。
ユダヤ人の血を流すことに生涯をかけたテロリスト、ヤセル・アラファトは、血液のガンで、全身がガン細胞で侵されて死亡した。享年75歳。
イスラエル政府は、アラファトとは一切交渉をしないと決めていた。そのアラファトがこの世からいなくなったのだ。和平交渉再開である。
ようやくこれから、新しい時代が始まる。
(2004年11月13日 無断転記および抜粋・リンク禁止)
おまけ:スゥハ・アラファトはどうした?
アラファトの生死が問われている中、スゥハはパリから、「パレスチナ国民よ、よく聞け。偉大なるアブ・アマル(ヤセル)は生きておられる!」と演説を行った。
これに対するパレスチナ人の感情は非常に冷やかで、テレビの街頭インタビューでも、「あの女はバカだ」「3年間どこにいたんだ?」「豪華な暮らしをしているというではないか」と、誰もが軽蔑の言葉を発した。
上記のように沸きあがっている民衆の中に入ったら、殺されてもおかしくなかった。自分でもそれを察したのだろう。スゥハは夫の遺体と共にパリからエジプトへと飛んだが、煮えたぎるラマッラへは向かわなかった。
何でも治安状態が安定した後、ガザで会社経営をする計画中らしい。なんともしたたかな女だ。