「カホール・ラバン」エッセイ集


64.遠距離恋愛


スウハは、夫のヤセルともう4年近く会っていなかった。
 2000年9月、夫がイスラエルとの騒動を開始して以降、スウハは娘とともにフランスで生活していた。
 そもそも、この2人が夫婦らしい生活をしていた日数のほうが少ない。まぁ、一政府の長のファーストレディともなれば、ごく普通の家庭を築くほうが無理なのだが。
 それでも彼女は苦ではなかった。フランスの超一流ホテルの1フロアを貸切り、夫が送ってくれる生活費で十分にパリ生活を満喫していた。

 スウハ・アラファト。今年で41歳。
 実家はラマッラの高級住宅地。銀行員の父と新聞記者の母との間に生まれた彼女は、パリのソルボンヌ大学で国際関係学を学んでいた。当時、夫のヤセルは、チュニジアのチュニスに在住し、イスラエル管理下のパレスチナに、テロやゲリラなどの一切の指揮指令を発していた。
 1989年、ヤセル・アラファトがパリを訪れた際、この裕福なスウハと運命的な出会いを果たした。
「私の秘書になってくれないか?」
 ヤセルはスウハに声をかけた。彼女は悩んだ末に大学を中退し、チュニスに飛んだ。そしてそれから1年もしないうちに、2人は結婚した。ヤセル60歳、スウハは26歳の時である。スウハの母はこの結婚に反対だった。年齢差、宗教の違い(スウハの家はキリスト教である)、そして、PLO議長という彼の仕事・・・。
 時は、第一次インティファーダの真っ只中だったのだ。

 1993年、ヤセルは若い妻を従えて、ガザに凱旋帰国を果たす。夫は多忙でほとんど家に帰らず、スウハは1人寂しくガザの大邸宅で生活をしていた。友達もいない。家族とも会えない。ショッピングも楽しめない。孤独な生活はスウハを苦しめた。夫はラマッラの議長府に在勤し、帰ってきてもゆっくりすることはできず、そして頻繁に海外へ飛ぶ生活。
 スウハは夫の政治活動には興味がなかった。夫はどんどん活動の枠を広げ、オスロ合意以降は世界の圧倒的支持を集め、ノーベル平和賞まで受賞した。だからなんだっていうの? 彼女はオスロ合意の式典にすら出席しなかった。
 不妊に悩む彼女はイスラエルの高度治療を受け、結婚6年目にして懐妊、パリで出産した。女の子だった。66歳にして父となったヤセルは目を細めて喜び、パレスチナ国家予算から、2人のために特別な予算枠を作った。

 2000年、パリに渡ったスウハと娘。
 毎日、夕方6時になると、夫のヤセルが電話をかけてきた。「元気か。大丈夫か。何か足りないものはないか」 
 足りないとしたら、家族3人のささやかな生活だろうか。しかし、毎月数万ドルの送金を受けていれば、不足分を満たすことができるだろう・・・。
 高級ブティックでの散財、一流レストランでの食事・・・。年若いスウハにとって、大好きなパリの上流社会での生活は、退屈を満たすのに十分だった。ガザの邸宅は広いだけで何もないが、ここならば友達もいるし、ボディガードをつけて自由に生活が出来る。なんたって彼女は、「ファーストレディ」なのだ。

 それから4年後の10月27日、事態は急転した。
 夫のヤセルが倒れたという。何度か具合がよくないという話は聞いていたが、倒れたのは始めてだ。既に75歳なのだから無理もない。
 2002年にイスラエルがパレスチナ議長府を包囲して以降、ヤセルはそこから出られない状態だった。かつて、イスラエル政府はヤセルにこう通告した。「出たいなら出ればよい。ただし、片道切符だ」。
 議長府から出てきた偽札の原版、テロの指示書、大量の爆発物・・・、ヤセル本人がテロの指導者であることを裏付けるには、十分すぎるほどの品々である。

 27日夜から、世界の報道は「ヤセル・アラファト重体」で持ちきりとなった。一時は倒れて意識不明だともいわれ、あるいは、復帰不可能とも噂された。腸癌だ、いや白血病だと、情報が交錯。CNNなどは、「ヤセル死後はどうなる?」と、彼の死を前提とした報道を繰り返していた。
 午後、スウハはパリからアンマンに飛び、イスラエルとの国境であるアレンビーに到着した。手には、フランスのパスポートとパレスチナのパスポートが握られていた。
 たとえファーストレディであっても、顔パスでは通れない。書類や写真の不備といったトラブルがあったそうだが、それでも事態が事態だからと、夕方5時にようやく通過。
 1時間後の夕方6時、議長府に到着。いつもならヤセルが彼女に電話してくる時間だった。

 久しぶりに会った夫は、やせ衰え、かつてのあのギラギラした威力など微塵もなかった。
 スウハは、夫の主治医らに、フランスでの治療を受けさせるよう指示した。彼女自身が9年前にパリで出産したのも、「パレスチナの医療はまったく信用できない」からであり、このまま夫をパレスチナの病院に入院させたら助かる命も助からないから、と。
 片道切符通告をしたイスラエルは、「治療のための出国も、その後の帰国も認める」と発表。

 10月28日未明、ヤセルが意識を回復したと報道され、パジャマ姿のヤセルという異例の映像が公開された。頭にはあの「アラファト頭巾」はなかった。
 朝7時15分、各国の報道陣が押し寄せる中、ヨルダン軍の空軍ヘリによって、ヤセルとスウハは議長府を後にし、ヨルダンのアンマンへ向かった。アンマンには、シラク仏大統領が特別手配した専用機が待機しており、パリ到着後は、市内の軍病院へ入院した。

 こうして、スウハはようやく「妻らしい」生活ができるようになった。
 もちろん、ファーストレディ自らが、夫の介護や身の回りの世話をするわけがないが、それでも、夫のそばにいて、夫を支え、夫に尽くし、ゆっくりと話をすることはできる。ここはパリだ。何の心配もないし、誰にも邪魔されない。
 もっとも、彼女が夫ヤセルとのそうした生活を望んでいればの話だが・・・。


(2004年10月30日 無断転記及び抜粋・リンク禁止)


参考:イディオット・アハロノット 10月29日付


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