「カホール・ラバン」エッセイ集


62. 青いIDカード


 アラファトは、「有言実行」の男である。
 2ヶ月ほど前、「平和の祭典・オリンピックの期間中は、停戦(フドナ)にする」と、宣言した。
 オリンピックが終わったから、アラファトの停戦期間は終了。従来のように無差別殺害を再開した。


 ベエルシェバ。
 聖書時代からの歴史を持つこの街では、これまでテロが起きたことがあまりなかった。というのも、ユダヤ人だけではなくベドウィンも住んでいるために、テロを起こすとベドウィンを巻き込む可能性が高いからだ。同じイスラムの同胞だから? いやいや、パレスチナ人は「ベドウィンの怖さ(血の復讐)」をイヤというほど知っているから。
 相当な調査をした上でテロを実行したのだろうか。8月31日の2台のバスでの殺人テロには、少なくとも、ベドウィンの死亡者はいなかった。
 テロの被害に遭ったのは、大半がロシア系やエチオピア系の移民者だった。

 殺害された16人の中に、ビタリー・ブロドスキー(52)とナルギザ・オストロブスキー(54)というカップルがいた。
 ビタリーは10年前にロシアから移民してきたイスラエル国籍所有者。ナルギザは7年前にグルジアからイスラエルに来た。2人は4年前に知り合い、一緒に暮らしていたのだが、正式な結婚手続きはしていなかった。というのも、ナルギザがキリスト教徒である上に、正規の移民手続きを経ずにイスラエルに入国したため、国籍が貰えないままだったから(ユダヤ人でも事前に移民手続きをせずにイスラエルで手続きをすると、国籍取得に最低2年はかかるらしい)。
 この日、2人はベエルシェバの内務省に赴いた。そしてナルギザは、青いIDカード(テウダ・クホラー)を取得、晴れてイスラエル国民となった。

 イスラエルでIDを取れた時の感動を、私は今でも憶えている。
 私の場合、非ユダヤ系の日本人であるために、国籍ではなくイスラエル居住権取得であるが、そのプロセスは非常に長かった。
 朝早くから内務省に行き、整理券を取って順番を待つ。外国人窓口は8時から10時までで、整理券を持っていても時間切れで窓口が閉まってしまうこともある。
 ようやく順番が来て担当者の前に座り、用意した書類を提出する。しかし、「次はこの書類を用意しなさい」「これを持ってきなさい」と、用意する書類がどんどん増えていき、そうそう簡単に貰えるものではない。
 戸籍謄本のヘブライ語翻訳と公証人印、宣誓書(弁護士の承認が必要)、警察証明、生活状況を証明する各種支払書や給料明細、医師の健康証明書、友人や上司らによる推薦状(私は6人分集めるように言われた)、履歴書、なぜイスラエルに住みたいかを書いた作文・・・。
 担当官との面接はあっても筆記試験等はないが、居住権にしても国籍にしても、その時々に応じて限度枠があり、条件を満たしたら誰でも貰えるというものではないし、比較的短期間で貰える人もいれば、何年もかかる人もいる。。
 用意した書類を全て提出し、次は何を持ってくればいいんだろう、と窓口でぼんやり考えていたら、目の前にポンとIDカードが! 何度も何度もありがとうと言いながら、まるで羽根でも生えたような足取りで内務省を出た。
 これで健康保険に加入できる。社会保険と年金基金にも加入できる。銀行口座を開設し、クレジットカードも作れる。運転免許も取れる・・・。帰りのバス車内で、知人に電話をかけまくった。

 ナルギザも同じ気持ちだっただろう。
 彼女とビタリーは内務省を出たあとに銀行に行き(おそらく口座を開設し)、今晩のパーティーのための買物を済ませて、バスに乗り込んだ。バスの中で、ナルギザはハンドバッグからIDカードを取り出し、ビタリーと2人で喜んでいたに違いない。

 8月31日は2人にとって忘れられない記念日となるはずだった・・・。
 
 そして、バスが爆発した。
 7年間の夢は、一瞬にして消えた。

 ナルギザがパレスチナに何をしたというのだろうか。真面目に働いていたビタリーが誰に迷惑をかけたというのだろうか。
 テロとはこういうものだ。


 移民者といえば、もうひとつ、忘れられない話がある。

 今から2年半前の2002年3月のこと。
 イスラエル兵に扮したヒズボラのテロリストが、レバノンからイスラエル領内に侵入し、30分以上に渡る銃撃戦の末、イスラエル兵が殺害された(テロリストも後に射殺された)。

 殺害されたイスラエル兵、ゲルマン・ロジャコブ少尉(25)はウクライナからの移民者だった。
 イスラエルには「ナアレ」という移民留学生受入制度がある。特に旧ソ連圏の国に住んでいる高校生が対象で、イスラエルの高校を卒業した後は両親の元に帰るか、或いはイスラエルでの兵役を経て、国籍を取得してイスラエルに居住することも可能である。ゲルマンは留学生として単身イスラエルに移民し、高校終了後に兵役に就き、終了後も継続して軍に所属。誰もが認める有能な士官候補生だった。
 ゲルマンの母親であるロドミラは、2年前に1人息子のゲルマンを頼ってイスラエルに来たのだが、彼女も正規の移民手続きを経ていないために、国籍が貰えない状態だった。

 ゲルマンは軍務の休暇を貰うたびに、母親のロドミラを連れ立って、何度も何度も内務省に足を運んだ。だが、正規の手続きを踏まえていない彼女が、そう簡単に国籍が貰えるものではない。
 特殊部隊に属するゲルマンは、激化する状況を恐れる母をなだめては、厳しい軍務に就いていた。彼は、何とかして母親に国籍を取らせたいと、そればかりを願っていた。

 情勢は悪化の一路を辿り、毎日絶えることなくイスラエル兵士や一般市民が殺されていく。明日のことは誰も分からない・・・。
 ゲルマンは、殺害される3日前、思い立って、首相あてに手紙を書いた。

『僕が死んだら、お母さんに国籍をあげてくれますか?』

 墓地で棺を抱えるようにして泣き崩れるロドミラに、青いIDカードが手渡された。それはあまりにも哀しい結果であった。 


(2004年9月3日 無断転記および抜粋・リンク禁止)

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