「カホール・ラバン」エッセイ集
51.共存するということ
今回はエッセイらしいエッセイを。
先日、個人的にショックを受けた事件があった。
事の起こりは、12月に行われた、職場での内部調査である。
外部からの調査員と職場で選出された調査員が各部署を回り、働く1人1人に対して、職場での仕事の問題点や改善すべき点はあるか、というようなことを聞き、よりよい職場作りを目指そうというのが趣旨である。
さて、一通りの調査が済み、その後、調査担当者と上層部との話し合いが行われ、今月初め頃、スタッフ全員に報告書が配布された。各職場の現状や改善点について整然と書かれており、私の部署の段落には、私の意見も少しは反映されていた。そこまではよかった。
しかし、ある一文が私の闘志を沸かせた。
「○○部は、4人のスタッフと日本人1人が働いている」
読み間違いかと思って何度も読んだが、どう読んでも日本人としか読めない。
なぜ、スタッフ5人と書かない?
早速、調査担当の人に電話をした。イスラエルというのは非常に合理的で、こういう問題をいちいち自分の上司に言い、上司が検討してから、担当者に連絡して、なんていう回りっくどいことはない。
「ちょっと、レポートに関して言いたいことがあるんだけど」
「君の意見も取り入れたよ。何かおかしかったか?」
「意見の方はどうでもいいのよ。なにこれ、4人のスタッフと日本人って?」
中盤で補足するが、日常のヘブライ語には敬語表現がない。本人の話し方で敬語的か喧嘩腰か決まるが、敬語的な気持ちは全くなかった。
「え、そんな風に書いてある? あーあ、これねぇ。ま、いいじゃないの」
「いいって、何が?」
「いや、だって現にそうなんだし・・・。ハハハ」
「(怒りは沸点に到達)、だったら、『1人はモロッコ系イスラエリ。1人はクルド系。別の1人はポーランドで、残りの1人はウクライナ』ってなぜ書かない?」
「・・・。じゃあ、電話じゃ話し難いから、明日、私のオフィスまで来なさい」
翌日、彼のデスクを訪ね、書類を目の前に出し、話を始めた。
・・・なぜ、私だけが日本人と書かれているのか。これが、労働省や税務署に提出する書類なら分かる。だが、社員として働き、税金も社会保険も他のスタッフと同様に支払っている私について、社内の回覧文書に「日本人」と表現する必要がどこにあるのか。
「この書類は、外部の調査員が原本を作って、それを基調にして上層部と会議し、その上で全員に配布したんだけど、元はといえば、外部の調査員が書いたんだよね」
「だったらもっと悪いでしょう? 会社の上層部もあなたも含めてこれで良し、と思ったってことですね?」
「そんな細かい所は見なかったんだよ」
「ちょっと聞いて下さい。日本人と書くことは、2つの意味をもっています。1つは私がイスラエル国民ではないということ。そしてもう1つは、私がユダヤ人ではないということです。
日本には、古来から少数民族はいるものの殆どが日本人であり、現在の日本ではイスラエルよりも厳密に、『両親とも日本人でないものは日本人として認めない。片親が日本人でない場合は国籍を選択しなければならない』という法律まであります。少々語弊はあるけれど、日本人=日本民族ともいえるのです。
『日本人』とあなたは気軽に書いているけれど、こういった文書に『日本人』と書くことは、『日本人であり、さらに非ユダヤ民族・非ユダヤ教徒である』と書かれたような衝撃があるのです。
私のIDカードのレオム(民族・国民)の所には、日本人と書かれているんですよ。たぶん、あなたのIDにはユダヤと書かれているはずです。最近のIDではレオム欄は廃止されたと聞きますけど。
ところで、もしあなたが外国で仕事をしているとして、『4人のスタッフとユダヤ人1人』と書かれたらどう感じますか。
それこそ、もしも職場にアラブ系のスタッフがいたら、あなたは「アラブ系」と書きますか?・・・」
イスラエルでは、理論的な話よりも感情的な話の方が受け入れられやすい。理論ばかりで訴えるよりも、大きな声で自分の気持ちをストレートに言う方が相手に通じるのだ。ここからは声のトーンを上げて、一気に感情で訴えよう。
「昨晩、私は悔しくて眠れなかった。一緒に働いてきて、ここまでやってきて、社員全員が見る文書に『日本人』と書かれることは非常に悔しい。ショックだ。大ショックだ。私は外国人労働者なのか。あなた達はそう思っているのか。きっとそうだ。よく働くアジア人、という程度にしか見ていないんだろう。いやいや、もういいよ、いいよ。どうせガイジンだよ。日本人だよ。イスラエル人じゃないよ。ユダヤ人じゃないよ・・・」。
(こんな風に日本の企業で言ったら、「イヤなら出て行け」と追い出されるだろう。笑)
「分かった。この書類に関しては、他の人からも問題点を指摘された箇所がいくつかあるから、もう1度書き直す予定なんだ。書き直しの報告書には、こんな書き方をしないから」
家に帰って落ち着いて考えてみた。
私は同様の過ちを犯していた。
これまで、自分の意見としてエッセイで表現したことはないはずだが、会話の中で言ったことがある。
「ハイファは、ユダヤ系とアラブ系イスラエル人が共存している」
ああ、私はなんと差別的な人間なのだろう!
これは、出版物やネットの世界でよく見たフレーズだった。それを疑わずに自分の言葉のように使っていたのだ。
【通常ならば敵対し、憎んでいるはずの】アラブ系が、【受け入れることができないはずの】ユダヤ系と一緒に共存している、というような、隠されたカッコの部分に気が付かなかったのだ。
例えば、アジアに興味を持つ欧米人が、ネットや出版物で得た情報だけで日本を訪れたとする。
日本での経験をまとめ、後日、彼はこんな文章を書いた。
「私は日本に2週間滞在した。ネットで知り合った日本人と一緒に、韓国資本のレストランに行ったのだが、そこでは日本人と韓国人が共存して働いており、その中には永住韓国人だけではなく留学生もいるらしい。そしてなんと、多くの日本人が食事を楽しんでいた。日本と韓国は仲が悪いと聞いていたが、やれば共存なんて出来るではないか。
そのあと、ネットで知り合った日本在住の韓国人と対面したが、彼は日本人が経営するアパートの一室に住み、上手に日本語を話し、日本のことをよく勉強しているし、日本人の友人も沢山いるらしい。このように、平和的に共存している姿をもっと伝えるべきだ・・・。」
こんな文章を読んだら、日本人の大半が、「頭デッカチの外国人が、うわべの知識で日本に来て、むちゃくちゃな文章を書いて...」と失笑するだろう。
だが、これと同じようなことを、中近東に興味がある大半の外国人が考えている。
頭の中に、「ユダヤとアラブの対決」「いつもいがみ合っている」という思想が根強く残っているがために、ユダヤ人とアラブ人が仲良くしているのを見て、驚いてしまうのだ
イスラエルで生活すれば、それがハイファだけではないことに気が付く。大都市だけではなく地方の小さな街においても、誰も何の疑問を持たずに生活し、同じ職場で買い物したり、同じ職場で働いたり、同じ学校に通っている。わざわざ、「共存している」なんていう言葉を使うことではない。
私だって、今回の職場のレポートに、「日本人が1人いるが、他のイスラエル人社員と共存して仲良く働いている。この職場は平和の象徴だ」などと書かれたら、間違いなく暴れていただろう。
一緒にいたい人は一緒にいる。相手を好ましく思わない者は一緒に生活しない。それだけのことなのだ。内部にいる者はそんなことは全然考えてもいないのに、外から見た者がいちいち、「彼はユダヤ系だから」「彼はアラブ系だから」と自分の固定観念で捉え、「共存している」「平和の象徴」というタイトルまでつけてしまう。
共存していると書くこと自体が差別的であり、双方の意志を全く無視している、といえるのではないだろうか。
ああ、思い出した。元労働党党首のアムラム・ミツナ氏が、自らを「平和の使者」と称し、その理由に「ユダヤ系とアラブ系が共存する街の市長だから」と言っていたことがあった・・・。http://kahol.mideastreality.com/kahol22.html
さて、私の話に戻るが・・・。
2週間後、報告書は刷り直され、再び全員に配布された。「日本人1人」という問題の単語は消えていた。
さらに、私の意見も消されていた。再び闘志が湧き上がりそうになった瞬間、調査担当者から電話が来た。
「きっと、『なぜ意見を消したのか。日本人という単語を消してほしいといっただけじゃないか。意見まで消せとは言っていない』、と君からまた電話が来ると思ってね・・・」
意見は全て匿名で書かれていたのだが、私が提案した意見は強すぎるという反発がかなりあったらしく、それで今回は削除したと。
『仕事が残っているなら少しは残業しろ』『私用電話が多すぎる』『遅刻や早退に罰を与えるべき』『社用車のプライベート使用を禁止にするべきだ』
・・・日本人にとっての「社会人として当たり前なこと」は受入拒否されたらしい。やはり、「日本人」と書いたままのほうが良かったのだろうか。
(2004年2月26日 無断転記及び抜粋禁止)