「カホール・ラバン」エッセイ集


44.人間の価値


 国連総会は昨年、「イスラエル人がパレスチナの子供を殺すこと」に非難決議を採択した。パレスチナ人の子供がなぜイスラエル人に殺されるのか、その背景を考えずに。
 爆弾の運び役となり、テロリストの盾として石を投げ、銃撃戦に巻き込まれて双方の銃の流れ弾で死ぬ子供たち。十分な訓練も施されていない少年に銃を持たせて最前線に並ばせ、イスラエル軍に応撃されると、「少年が射殺された」というパレスチナ。
 国連ではそれを全て一括して、「イスラエル人に殺される子供」というらしい。危険な状況に追い込む大人は度外視し、あくまでも悪いのは殺す側だと言うのだ。

 私は、「子供を守れ」とか「子供だから可哀相だ」という気持ちはない。加えて、「被害者の大半は女や子供」などという言葉も好きではない。
 なにやら「子供が犠牲」「子供が可哀相」「女性が被害者」と聞くと、「老人なら構わない」「男は殺されても仕方ない」という風に聞こえるのだ。
 とんでもないことである。
 そんなに子供の人権を訴えるなら、子供だ大人だと区分せずに、暴力行為を行なう子供も裁くべきである。それをして初めて「子供の人権」が成立するのだ。
 子供だろうが大人だろうが、私は他者を殺傷するものに同調しない。たとえ被害者が高齢者であっても、テロリストの爆弾で命を奪われたとしたら、それは生命の尊厳に対する侮辱ではないか。それとも、子供さえ殺されなければ、あとは構わないのか? 子供さえ殺されなければ、テロや内戦が続いてもいいのか? 大人は殺されてもいい? 男はやむを得ない? 冗談じゃない!
 
 11月15日土曜日、イスタンブールの2ヶ所のシナゴーグで爆弾テロが発生。もちろん、ユダヤ人だから標的になったのである。いったい、ユダヤ系トルコ人が何の罪を犯したというのだろうか。
 フランスでは、ユダヤ系の学校は放火された。一体、この学校が燃やされるような悪いことをしたというのか?
 何もしていない。理由はただ単に、ユダヤ人だからである。
 
 ユダヤ人だから、差別されても構わない。殺されても構わない。
 子供が殺されても構わない。だってユダヤ人なのだから。
 そう、そうやって歴史は繰り返してきたのだ。今のこの時代になってキレイ事を並べても、結局世界は、「だって奴らはユダヤ人じゃないか」という一言で片づける。
 2000年以上もユダヤ人は嫌われ続けた。逆に言えば、2000年以上も、世界はユダヤ人が嫌いなのだ。ユダヤ人が迫害された歴史を持っていると言うなら、世界は、ユダヤ人を迫害し続けた歴史を持っている。
 ユダヤ人は、イスラエルを建国することで歴史を変えた。だが、国際世界にとってそれは、「嫌われ者がまとまって国を作った」というだけである。今更、どうやってユダヤ人を好きになる?

『ティパット・マザル(幸せのしずく)』という有名なイスラエル映画がある。
 舞台はイスラエルが建国されて間も無い1950年代。モロッコで歌手をしていたユダヤ人ジョジョとその娘が、イスラエルに移民してくるところから話が始まる。トランクを手に移民船に乗り、ハイファ港に到着したジョジョ親子は、移民を受け入れるキブツに入る。キブツでの窮屈なテント生活に辛い肉体労働。モロッコでは歌手として名をあげ、広い家に家政婦を2人も雇う裕福な生活をしていたジョジョにとって、それは余りにも過酷な現実だった。
 しかし、椅子代わりの木箱に座り、粗末な食事を手にしながら、ジョジョは周りを見回すと満面の笑みを浮かべて言った。
「みんな、ユダヤ人だ」

 世界中に迫害され、所を追われ、身も心もボロボロにされ、愛する人を失い、その果てにたどり着いたイスラエル。
 ユダヤ人が安心して住める国。少なくとも、ユダヤ人だからという差別がない国。
 テロは続き、経済は混乱している。隣国との緊張や世界の冷遇も受ける。だがこの国にいれば、ユダヤ人だからと不当な扱いをうけることはない。
 そしてこの国は、ユダヤ人だけの国ではない。アラブ系もいれば、外国人もいる。「ユダヤ人を理解する者ならば、受け入れる国」なのだ。

 それに引き換え、世界はどうだろうか?
 愛だ平和だと言いながら、結局、何もしない世界。民主主義だ平等だと言いながら、人の心に巣食う差別は厳然と存在する。
 彼らが言う愛は、「自分が愛するものを愛する」だけの愛。愛とは、なんと頼りないものだろう。愛の対極にあるのは憎悪である。愛せないものは憎しむ。だから世界は、ユダヤ人を嫌うだけに留まらずに、徹底的に憎しむ。
 彼らの言う平和は、「自分に影響のある範囲に何事もない」だけの平和。平和の対極にあるのは戦争・攻撃であるが、自分に影響のないところで何が起きようと知ったことではない。1人1人がそんなだから、政治家に至っても同じである。自分の国のことを棚に上げて、他の国を非難することで、さも自分の国は正当なんだと国民に思い込ませる。
 イスラエルでテロが続いている? イラクは情勢不安定? ならそんな国に行かなければいい。所詮、世界はその程度にしか考えてないのだ。

 全ての人が、安心して暮らせる状態にならなければ、この世界は平和ではない。
 一国家や君主のための平和なんてものでは、何も解決しない。
 
 先天的にユダヤ人が嫌いだというなら、無理に愛せよとは言わない。だが、同じ人間として、この状況を考えてほしい。相手を思いやり、相手の立場を理解することは出来ないだろうか−−−。
 慈悲とは、愛することが出来ない相手をも包みこむ寛容である。認めることの出来ない相手を、自分と同じように考えることである。そうやって相手を尊敬することで、初めて自分自身が活きてくる。それこそが人間の価値なのだ。
 ○○民族だから、△△教徒だから、▽▽国籍だから・・・。 
 人間は、そんなちっぽけな区別で測ることができないはずだ。  

 そして今、そんなちっぽけな区別を越えて、テロは起きている。
 11月20日、イスタンブールで同時テロ発生。イギリス系銀行とイギリス領事館が標的となった。
 それを待っていたかのように、ブッシュ大統領が訪問中のロンドンでは、通りを埋め尽くす大デモ行進が展開された。
 どう考えても、平日の午後にあれほどの規模のデモが「自然発生」で行われることは絶対に有り得ない。テロ実行グループとデモ扇動グループが連携しあい、テロ発生直後にデモ行進を行なうように人員を手配召集し、プラカードやポスターなどの用意に至るまで、数日前から綿密に指示していたことが容易に予測できる。
 目的は1つ。「テロが起きたのは、ブッシュ大統領と、彼に同調したイギリスのせいだ」とテロを正当化し、事実関係をスリカエさせるためだ。

 それにしても、あのデモ行進で掲げられていた無数のパレスチナの旗は、何を意味するのだろうか。


(2003年11月21日 無断転記及び抜粋禁止)
 

おまけ:
 せっかく映画の話をしたのだから、『ティパット・マザル(幸せのしずく)』のあらすじをもう少し。
 ジョジョは必死に働くが、周囲との衝突からキブツを離れ、モロッコ系が多く住む街の食堂で専属の歌手として働く。十数年後、娘のヴィヴィは美しく成長し、父が出演する食堂で給仕をしていた。そんなある夜、ジョジョは客の前で歌っている最中に倒れてしまう。
 倒れた父に動転しながら、ヴィヴィはその場でマイクを握り、人前で初めて歌った。誰もが驚くほどの美しい声で。
『神様、ほんの一滴だけでいい。幸せを下さい−−−』
 ジョジョは視力を失った。その治療には莫大な金が掛かる。たった1人の肉親である父を助けようと、ヴィヴィは必死で歌い、治療費を稼ぐ・・・。

 ご心配なく。半分コメディタッチで描かれたこの映画、最後はジョジョの目が治ってハッピーエンドだから。

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