「カホール・ラバン」エッセイ集

40.本当に大切なこと

 先日、「イスラエルとパレスチナの子供を日本に招待してサッカーをさせる」という企画があったというニュースを電子版の新聞で知った。
 イスラエルとパレスチナの子供22人を日本でサッカーをさせ、互いに汗を流すことと、同じ時を過ごす楽しみを。そして、いがみ合うのではなく、対話と平和の第一歩をサッカーから...。

 懸命に企画している人達や支持者には悪いが、私はこの企画に全く賛同できない。

 ◎理由その1

 そんなことは、イスラエルでは既に行われている。
 イスラエルとパレスチナのサッカー試合は頻繁に行われており、その参加人員は延べ2000人以上。もちろん、サッカーだけではない。パレスチナの運動選手はイスラエルの施設で訓練を受け、国外試合にはパレスチナ代表として、イスラエル選手と肩を並べて参加している。
 なにも、スポーツに限る必要はない。
 イスラエル国内の各大学・専門学校にはパレスチナ人学生も学んでいるし、イスラエルの各種研究機関には、パレスチナ人の研究生がいる。
 パレスチナ人でもイスラエルの病院に入院することが出来る。そして、イスラエルの大病院にパレスチナ人の医者・看護婦がいる。
 もっと簡単な例では、イスラエルでの労働許可を持つパレスチナ人は、イスラエル領内でイスラエル人と共に働いている。また、イスラエルとパレスチナの合弁企業もある。
 これらは、交流ではないのだろうか? 

◎理由その2

 このような企画に参加するパレスチナ人は、「親イスラエルの家庭に生まれた子供達」である。
 子供もその家族も、もとからイスラエル人に対して憎しみを抱いていないはずだ。言うなれば、リベラル思想を持つ中流レベル以上の家庭の子供であろう。
 考えてみてほしい。幼い時から「反イスラエル」を擦り込まれて石投げやデモ行進に率先して参加する子供、収監中のテロリスト家庭の子供や、テロの枢軸である難民キャンプで暮らす子供が、イスラエル人と一緒にサッカーをする企画に参加するわけがない。たとえ、こういった子供たちが反イスラエル思想を持っていないとしても、反イスラエル思想の家族や近所が「イスラエル人と交流を持つこと」を許すわけがないだろう。

 もちろん、イスラエルにしても同じことである。イスラエルにおいては、パレスチナのような「恨め・殺せ」という洗脳教育は断じてないが、個人的思想でパレスチナ人を好ましく思わない人がいるのは否めない。結局、イスラエル側においても、このような企画に参加してパレスチナ人とサッカーをさせようと考えるのは、親パレスチナ思想の家庭であることは間違いない。

 現在、世界はテロに対して神経をとがらせ、どの国の空港も航空会社も、搭乗客に対して執拗なまでのチェックを入れている。世界各国の情報機関は相互に連絡しあい、少しでも疑いのある者の出入国を阻止しようと、ビザ発給や航空券販売を差し押さえている。
 たとえ子供でも中東出身、特にパレスチナ人の往来となると、「日本でサッカーします」など何の印篭にもならない。
 つまり、このような状況でもすんなりと渡航できるパレスチナ人ならば、よほどしっかりしたバックグランドを持っているはずだ、ということが容易に分かる(もしかしたら、イスラエルID保持者かもしれない・・・)。

 こういったことをまったく考えないで、招待した側が、
「ほら、パレスチナの子供と握手して挨拶ですよ。にっこり笑って」
「イスラエルの子供と一緒にチームを組みましょう」
「次は、平和に皆で並んでいるところを記念撮影しますよ〜」
と、勝手な構図を作るのでは、子供たちがあまりにもかわいそうではないか。
 もともとこの企画に参加したのは、反イスラエル・反パレスチナの思想を持っていない子供達だというのに、『暴力の連鎖の中で対立している国の子供達が握手』などという枠にハメられ、『双方のいがみ合いの代表』に仕立てられてしまうのだから。

「理由その1」で書いたが、全てのイスラエル人と全てのパレスチナ人がいがみ合っているのではない。わざわざその場を遠く離れた日本に作っていただかなくても、イスラエル人とパレスチナ人が交流する場所は、イスラエルにはいくらでもあるのだ。
 マスメディアが、「暴力の連鎖」「報復につぐ報復」などというタイトルを付け、対立しているシーンばかりを流すから、「とにかく両者は対立していて、何の交流もない」「顔を合わせるチャンスもない」などと誤解している人が多すぎるのではないか。

 ◎理由その3

 双方のサッカー選手団の海外遠征というなら話は別だが、なぜわざわざ普通の子供たちを日本に呼ぶのか? しかもたった22人だけ? そして驚くほど短期間だけ?
 子供たちが大人になった時、「10歳の時、私はイスラエルの子供と一週間だけ日本でサッカーをした。それ以降の交流は全く途絶えたけど、あの時楽しかったからイスラエル人は信用できるし、話し合えるはずだ」と言うだろうか?
 
  イスラエルとパレスチナの普通の子供をサッカーさせるなら、イスラエルででもできるではないか(現に行われている)。
 こうやって極めて一部の選ばれた子供だけに交通費・滞在費を出すならば、もっと近い場所でやればその分多くの子供が参加できる。それが不可能ならば、その資金でパレスチナの小学校にサッカーボールや学習教材を寄付する方が、よほど皆に公平で有益ではないのか?
 そうそう! そんなにサマーキャンプをさせたいなら、いっそのことパレスチナで開いてやってほしい。 
 以前のエッセイにも書いたが、パレスチナでは、ハマスなどのテロリスト組織が、貧困層の子供を集めてテロリスト養成のサマーキャンプを開催している。
 そこで「こっちには楽しいサッカーのサマーキャンプがありますよ」と呼びかけてくれた方が、より多くの子供が参加できるし、何よりもテロ防止に役立つのだ。



 今年の夏、北部のキブツに住む友人を訪ねた。友人のキブツにはゲストハウス(日本流にいえばペンション)があり、その時はなぜか子供ばかりが滞在しているようで、ゲストハウスの駐車場にあった数台の車の後ろに「One family」という大きな旗が貼ってあった。立ち止まって旗の文字を読んでいると、車の持ち主である引率スタッフがやって来たので、少し話を伺った。

「これは、本人や家族がテロの被害にあった子供達のためのサマーキャンプなんだ。イスラエルでは、子供が地域や学校のサマーキャンプに参加するのが通例だけど、特にテロ被害をうけた家庭は、金銭的な都合で参加できないケースもある。お金での不自由はなくても、精神的な痛手を負っていることは間違いないだろう。それに、サマーキャンプどころか、一緒に旅行に行く家族を失った子供もいる。
 だからこうやってサマーキャンプを開いて、彼らに楽しいひとときを送ってもらおうというわけだ。ここだけではなく、イスラエルの何ヶ所かでやっているんだけどね。
 何よりも、街で生活していれば、苦しいのは自分の家だけだ、と思ってしまうかもしれない。でもこういったサマーキャンプに参加して、同年代で同じ境遇の友達を作ることで、自分だけが苦しいのではない、ということも自ずから知ることができるしね」

 その時、少し離れたところから、珍しそうな目で日本人の私を見ている女の子の一団がいた。彼女達は、頭からすっぽりとスカーフをかぶり、長いスカートをはいていた。
 彼女達を見て意外な顔をしてしまった私に気が付いた引率スタッフは、「彼女達も同じですよ」と笑っていった。
 この組織「One family」はテロ被害者の支援を目的に、世界中からの援助によって運営されており、サマーキャンプは、この組織の活動のごく一部である。


 援助とは、何か特別なものではない。
 いつか紹介したいと思っていた話を、この機会にさせていただこう。
 定年を迎え、悠々自適の生活を送る知人夫婦は、今年の冬、なんとコンテナ1杯分の古着をパレスチナに送った。
 話はこうだ。
・・・今年の冬、この夫婦はある日のテレビのニュースで、パレスチナの街の様子を見た。今年の冬は例年よりも寒く雨が多かったため、どのパレスチナ人も寒そうな顔をしていた。
 そこで2人は、「何かできることはないだろうか」と考えた末、2人にゆかりのあるキブツを訪ね、事情を話してキブツの洗濯衣料庫から古着やタオルなどを集めまくり、大量の衣類を2人だけで仕分けし、然るべき機関を通してパレスチナに届けたというのだ。

「息子と娘の部屋が空いているから、2部屋を服だらけにして仕分けしたのよ」
「楽しかったよ、2人で地図を見ながらドライブして、あちこちのキブツに行って。古い友達にも会えたしね。今年もまたやるつもりだよ」
 来年は手伝いますよ、と私が言うと、「年寄りの楽しみを奪うんじゃないよ」と余裕の笑顔で断られてしまった。
 


 最後に、ユダヤ教の祈祷書にあるという『施しの8段階』を紹介させていただきたい。

1.プンプン怒りながら施す。
2.ニコニコしながら、しかし自分が出来るよりもはるかに少ないものを施す。
3.下さいと頼まれてから、相手に施しを手渡す。
4.頼まれなかったが、進んで自分から施しを手渡す。
5.受ける側は与える側が誰だか知っているが、与える側は受ける人を知らない。
6.受ける側は与える側が誰だか知らないが、与える側は受ける人を知っている。
7.誰が与えたか、誰が受け取るか、互いに全く知らない。
8.困っている人が施しに頼らなくて済むような状態まで助ける。


 援助やボランティア活動は、所詮、自己満足である。だが、相手を理解せずに単なる自己陶酔で終わっているパターンがあまりにも多い気がする。
 ボランティアとは、自己を満たすことが目的ではない。相手の気持ちや立場を理解し、相手を満足させて初めて、自己が満たされるのだ。
 その順番を誤ったら、誰も満たされない。



参考資料:
http://www.peres-center.org/
http://www.onefamilyfund.org/
「ユダヤ人最高の智恵」(前島誠著 三笠書房)


(2003年8月25日  無断転記および抜粋禁止)


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追伸:報道関係の皆様へ。


 イスラエル軍は、先週のエルサレムでの無差別殺人テロの直後、自衛権を行使してパレスチナ領内に入り、テロ摘発作戦を展開しましたが、かねてより、大半の日本の報道において、事実と異なる表現を使っているようですので、これを機に言葉の誤用に関してご考察いただき、是非とも訂正をお願いします。

「イスラエル軍、昨夜のテロに報復。パレスチナに侵攻」

『報復』とは、「やられたことを、やり返すこと」です。

 イスラエル軍が、被害者と同じ人数のパレスチナ人を片っ端から殺したとしたら、報復という言葉を使うのも理解できますが、イスラエル軍の行動はあくまでもテロ組織のアジトやテロリストを摘発することが目的です。
「イスラエル軍、昨夜のテロを受けて、テロリスト摘発作戦を実行」と表現すべきではないでしょうか。  

「イスラエルで自爆テロ。○○○が犯行声明。幹部暗殺に報復」
 これも不適切です。
 もしパレスチナがテロ幹部を暗殺されたことに報復するなら、イスラエル軍幹部を暗殺することが報復に該当し、戦闘状態でない一般国民を何の前触れもなく大量に殺傷することは、もはや虐殺です。
 また、自爆テロというのも不自然です。犯人の生死などこの際問題ではありません。これでは加害者に感情移入したような物の言い方に感じます。

 つまり、「パレスチナがエルサレムで虐殺テロ。幹部暗殺に逆恨みか」とした方がより事実に近いはずです。
 
 正しい情報は、正しい日本語の使い方から始まります。

 報復の連鎖と勝手に命名することは、無差別テロによる虐殺を肯定したり、軍によるテロ取り締まり・摘発を否定することです。

 マスメディアの皆さんは、真実を知っているんですよね? 
 だったら読者に「中東の報復合戦」「暴力の連鎖」というイメージを植え付けること、そろそろやめませんか。



(2003年8月25日  無断転記および抜粋禁止)

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